科学者が人間であること | 一般社団法人 中部品質管理協会

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 著者の中村桂子氏は、日本の生命科学(人間を生物学の対象とする)のパイオニアで、「生命誌博物館」の活動を、20年間継続しておられる。
東日本大震災で多くの人が「想定外」という言葉に憤りを感じた。地震、台風による自然災害、火事や電気系統による人工災害が起きているが、様々な危険を想定し、科学技術によって、安全対策をするのが当然である。しかし、人間は、役に立つ科学技術、工学の発想で、一方的に、便利さと豊かさを追求してきた結果、大量生産、大量消費によるエネルギー問題、環境問題を引き起こしてしまった。全てを制御できるという誤解のもとに、人間は、生きものであり、自然の中にあることを忘れてしまったのではないか。科学者(自然法則を追求する)、技術者(自然科学の法則を活用し、自然界にないものを創造する)が、科学者、技術者である前に、日常、自然と向き合う中で科学を考える人間であることが不可欠である、というのが本書の主張である。
 近代科学は、ガリレイの自然は数学で表現できるという考え方、デカルトの分析哲学による機械論によって発展し、多くの近代文明を築いてきた。しかし、今は、機械論のいきすぎがあり、生命論で是正していくことが求められている。ガリレイとデカルトの犯した誤りは、客観的事実には幾何学的、運動学的性質のみであり、色、匂い、音、手触り、といった感情的性質は人間の主観的印象に属するものとした。その結果、自然を死物化してしまったことにある。21世紀の科学は、生きた自然との一体感を実現していくことが求められる。哲学者の大森荘蔵氏は、現象を可能な限り最小の単位まで還元し、分析することを密画的方法、自分の眼で物を見、耳で聞き、手で触れて現象を理解することを略画的方法と称している。物と心が遊離してしまった見方を、この二つの見方で、科学を自然と一心同体で見ること(それを「重ね描き」と呼ぶ)が必要である。自身のDNAの研究過程でも、ヒトと大腸菌の遺伝子が同じ方法で生きていることを知ったとき、日常と科学が重ね描きとして実感することができたという。そして、生命科学も文化、文明を持つ人間について人類学や心理学だけでなく、科学、社会学等とも協働して研究していきたいと思ったのが始まりである。
 そして、日本人の自然観には、重ね描きができる素養があることを例証している。万葉集の「・・・見ゆ」という表現は、ただ眼で見えるということだけではなく、空間的、時間的に私が在って、自分が判るということである。歴史上の人物では、宮沢賢治、南方熊楠を挙げている。宮沢賢治のいくつかの作品はそういう見方ができ、熊楠は、科学と仏教の重ね描きによって、心界と物界の交わりである、「事」の条理を極め、「縁」を知ることができるという。
 今までも、エネルギー問題、環境問題でいわれてきたように、科学技術の目指す方向は、「進歩と調和」である。これからは、科学者、技術者であっても、人文、社会科学をしっかり学ばなければならない。そして、科学技術を追求する上で、生きものとしての視点を失わず、自分を日常、思想、自然の中に置いて、重ね描きのできる人間になることが求められる。                  (杉山 哲朗)